2020.6.24 19:00〜21:00オンライン:Zoom
こんばんは。
今回ファシリをさせて頂きました佐藤です。「対話すなっく」の報告です。
前回に引き続き、対面での活動が自粛となっているため、Zoomを利用したオンラインの「対話すなっく」を行いました。
今回のテーマは「名前」でした。対象を人の名前に限定し、「なぜ名前があるのか?」、「無いとどうなるのか?」というところに目を向け、対話しました。
初めの質問は『名前ってどんなとき呼ばれるか?』
相手の名前を呼ぶとき、それはどんな状況であるかを挙げてもらいました。
・人を呼ぶとき。その人が必要なとき
・危ないとき(飼い猫が危険な状態にあるとき)
・怒るとき
・人を起こすとき
・出席を取るとき
・頼みごとをするとき
・感謝するとき。しっかりと相手に伝えたいとき
・噂話をするとき
・迷子の人を呼ぶとき
・他人と区別するとき(複数名いる場合、個人を指名したいとき)
・その人を思い出すとき(話題に人物がのぼるとき)
以上のようなものが列挙されました。危ないとき、頼みごとをするときなど急を要する場合から、人を呼ぶとき、起こすとき、感謝するときなど特定の相手に何かしらを伝えたいときにも、名前は利用されるのだと考えました。また、噂話、個人を指名するときなどから、名前は個人を容易に特定できるツールとして用いられていることを実感しました。
次に『この名前でよかったなと思うこと、或いはその逆』について。
自分自身の姓名について、これまでの日常生活での経験を聞きました。
・名前がかわいいね、と言われること
・似た名前と間違えられること
・自分の名前の由来に親の思いがあってほしかった
・逆に、親の思いがプレッシャーになっている
・発音しづらくて何度も説明を要するとき
・珍しい苗字→覚えてもらいやすい
・名前をいじられること
・同じ名前の子と間違えられること
・それゆえ性格の比較をされること
・名字から「お金持ち」とイメージされがちなこと
・男なのに女の子の名前と間違われること
・名字を下の名前と間違われること
・わかりやすい名前→イメージしやすい、書き取りやすい、楽だと感じる
それぞれ持ちうる名前はまったく違っていることから、経験も千差万別。姓名を構成する漢字やそれらの発音からもたれるイメージでうれしい経験もあれば、あまり良い経験をしなかったという人もいました。当然といえば当然ですが。
名字には生まれた地域や先祖との関係性、名前には親の思いが少なからず込められていると思います。特に、下の名前は生まれながらにして授けられていて、変更するということは通常ないものです。つまり、成長過程で様々に思いを抱きつつも、一生付きまとうものであるわけです。良かれ悪しかれ、一個人にとっての枷となりレッテルになるのではないでしょうか。
いずれにしても名前は各個人を表すステータスの一つとして機能し、特にファーストインプレッションに大きく関与してくるのではないかと考えます。同じ漢字であっても、読み方や持つ意味が複数に及ぶ、という日本語の名前のもつ特性ゆえのことなのかもしれません。
つぎに、『名前を呼ぶことの意味、それに伴う意思とは?』という問い。
ここでは、敢えて名前で人を呼ぶことにどんな思いが込められるのだろうか?という部分に注目して、意見を聞きました。
挙がったものとしては以下の通りです。
・学級崩壊を立て直す→1日1回名前を呼ぶようにした
→仲良くなりたい相手、疎遠に思う相手に対して名前を呼ぶことに効果あり
・1時間に3回以上名前を呼ぶ→仲良くなりやすい、関係を近づけやすい
・名前を呼ぶこと→相手との距離感を表しやすい
(あだ名、下の名前⇔○○部長など所属を表す呼び方)
・名前の呼び方を区別する→特別感が出る
担任が顧問の時、自分だけ呼び方が違う、など(感じ方は人それぞれ?)
・仲良くなりたいときに名前を呼ぼうと思う→名前を呼ぶ行為に意味がある
・相手の名前を覚えないといけないとき、あえて名前を呼ぶようにする
・初めての場で名前を呼んでもらえて安心した
→名前を呼ぶこと=相手に安心感を与える、承認欲求を満たせる、なじんでもらう
『ねえねえ』や『あのさ、』など、声をかける、話を振るツールはいくらでもあるのに、敢えて名前を呼ぶのには、自分とその相手との間にしかない関係の特別性を示しているのではないかと感じました。名前を呼ぶという行為自体に、他者との距離を縮める効果や一種のリラックス効果を生んでいるという考えが印象的でした。
やはり、特に興味のない相手やまだ仲良くなれていない、距離を測りえていない相手に対し、名前で呼ぶということはハードルが高いものです。たった数文字、初めて相手の名前を口にするのに釣り合わぬほどの緊張を感じるのはそのためだろうかと。
逆に、自分の名前を呼んでもらい安心した経験は少なくないと思います。それは、新しい集団の一部として受け入れられたという安堵から来るのかもしれません。
次いで、『名前での管理と個人番号での管理の違い』について。ここでの個人番号とは、学籍番号、マイナンバー、診察券の番号など広く個人を特定するのに用いられる番号を指します。
なぜ名前がないといけないのか?逆に、番号で管理することのメリットはなにか?といった部分について議論しました。
・名前→読み間違えが起こる可能性があるが、番号ならその可能性は低くなる
・名前を使われるのはちょっとうれしい。感情的に呼ばれることがうれしい。
・名前の方が学籍番号より早く書ける
→学年が上がっても番号をまだ覚えられていない。手間がかかる。
名前なら変わらない。予測変換で出るから楽。
・番号より名前の方が覚えやすい
・番号での管理→個体として、数としてみている
名前での管理→その人を見ている。一人の人としてみている
・名前はそうそう変わらない。番号は所属、組織などで変わるから面倒。
・名前だと同姓同名の場合、区別に別の要素を必要とする
番号なら、それ単体で区別することが出来る
・呼ぶとき、桁数が増えると面倒。
・番号だと名前よりも男女の区別がつきにくい。
・名前でその人の出身がある程度わかる。ナンバーでも分かるかも??
・名前は親など人間が決める。番号は機械的に決まるもの
・名前には気持ちを込められる
・番号だときらきらネーム、DQNネームはない。成長後困ることはない。
個人的には、番号での管理にマイナスイメージが強かったのが意外に思いました。
また、番号での管理と名前での管理、書き取りや識別のしやすさの面から、どちらに利便性があると思うかについては、意見が大きく二分していたのも印象的でした。
ただ単純に名前を使われること、そこに感情が乗ること自体がうれしいというのも共感できます。番号での管理ではなし得ない、その人個人として見ていることの表れでしょうか。
一方で、番号での管理は凄く一様です。悪く言うなら通り一遍。その管理は機械的で、とくにひねりなくできる反面、当然ながら個性は現れてきません。たとえば、ある講座の受講者の情報を閲覧するとき、初めて来た患者さんに診察券を発行するとき、役所で番号札を発行するとき。これらの動作は業務として行われ、そこに感情やTPOによる違いは伴いません。だから、人によって呼び方や管理形態が変わることはないわけです。
逆に言うと、違った場合への対応に融通を効かせることはできません。名前での管理ならば、たとえばまじめな話があるとき、相手の目を見て名前を発音することで、その場に緊張感が生まれます。或いは、試合で『○○!ナイス!』などと熱の入った応援は、パフォーマンスの向上にもかかわってきます。
番号での管理には、それが出来ません。もし、成績の良かった生徒を番号で呼び、称賛しようとするならば。もし、病院での問診を受けるのに『××番さん、今日はどうなさいましたか?』と聞かれたならば。自分自身、書きながらも、もはや実験体を扱うようだと感じてしまいます。人との対話において、なにかしらの伝えたい思いがあるとき、そこに番号を用いるのがいかに相応しくないかというのが、ありありと感じられます。
このような状況が想像しがたいものであることからも、人々は日常生活において番号による管理をする場面を、経験則的に仕分けているのかもしれません。番号は、名前を呼ぶのと異なり、状況普遍的な面を持ち合わせていないと言えます。名前を呼ぶときのように声色を変えたり、感情をのせたりと融通を効かせるような局面にはなり得ない、とも言えますが。
番号、名前、それぞれに乗る情報は大きく変わってきます。
人ひとりひとりを数とみるか?個人とみるか?私たちは、そのデータの取り扱いによって、管理の仕方を無意識のうちに変えているのかもしれません。
最後の問いは『名前がなかったらどうなるか?』でした。
これは、自身このテーマを設定するときに浮かんだ初めの疑問でもあります。
・コミュニケーションが取れない→寂しい世の中になっていた?
・新しい発見は生まれなさそう
・区別ができなくなる。1人を呼びたいときなどに、個人の特定が出来にくい
・区別ができない分、他の言葉(身体的、外見を称す特徴)で表現する必要が出るので、言葉は増えるのでは?
・その分相手をよく見ておく必要がありそう
・代わりに嗅覚が発達して、匂いで判別する社会があったのかも
・動物はどうしているのか??何でコミュニケーションをとっているのか?
・歴史の教科書がかなり薄くなっていたかも?
→こんな感じの人がやっていた、など歴史上の人物の情報が薄くなる可能性
・差別、いじめが今より増えそう
→身体的特徴で呼ぶことに今以上に抵抗がなくなりそう
・絵が発達しそう
→歴史上の出来事も絵で表現することが増えていそうだから
・歴史上の人物→「自分の特徴を明かさないように」依頼する→余計にどんな人か判別できなくなる
・名前って誰が最初に付けたのだろう?どういう経緯で?
・名詞がなくなる→形容詞、副詞など修飾語が増えていたかも?
・どうやって個人を判別、特定するのか?
→記号?番号?住所?
・大昔はどうやって名前で呼ばれていたのか??
→個人を判別する必要がなかったのでは?(みんなで~~しよう!など)
→それが可能だったならば、貧富の差がなくとても仲の良い大きなグループが出来ていたのでは?
→サルやアリのように強い、齢の区別はつくと思う
・名前がない状態で会話するとしたら
→汎用性の高い「こそあど言葉」、指をさす、手話などのハンドシグナルなどが発達したのでは?
・名前がないままこのまま来ていたら+技術発達
→呼名されて脳に信号が送られるだけ、機械、ロボットみたいな世の中だったかも?
以上のような意見が出ました。
個人的に考えた段階では、意思疎通がしづらいためにうまくコミュニケーションがとれない、そのため文明の発達に遅延があっただろう、などといったマイナス面しか浮かんでいませんでした。
「名前がないのなら、その人の特徴を称す必要がある」→「そのための語彙、表現の増加、多様化に寄与したのでは?」という考えを皮切りに、名前のないことによる文化へのプラス面が大きく挙げられました。なかでも、貧富の差が小さくなっていたかも、絵が発達したかも。という意見が印象的でした。
もし、大昔の祖先たちがそのようにして他人を示し伝えあい、その過程で得られた言葉が今日まで多く用いられているとして。そこで生まれた言葉は、人の特徴や性格、風土などを明瞭に示していたものであると考えます。
人に名前を付けることが一般になった現代で、それらの言葉が命名に大きく寄与していたら。自分のこどもに夢や思いを詰めて名付けられた名前には、顔も分からないかつての人々が築いてきた知識が基盤にあるのではないでしょうか。自身、以前は期待にあふれている名前と名前負けだと感じてしまう卑屈さゆえに、あまり自分の名前が好きではありませんでした。ですが、今回の対話をきっかけに、自分の名前を少しだけ好きになれた気がします。
今回のテーマとした『名前』について、議題設定のきっかけはある動画でした。新体操、アジア選手権においてフロアに入場する選手の名前が大きく呼ばれる一幕を見たことでした。演技前にしてもらうコールは、周りからの期待であり鼓舞する力でもあります。アジアの舞台において、日本のいち選手の名前が会場全体に響き渡る。ここに国境を超えた応援であると感じるとともに、『名前』のもつ力の強さを想いました。
今回の対話で、『名前』を呼ぶことの意味、また名前は必要不可欠なものであるというのを再確認しました。さらに今後、自分の名前は勿論、周りの人の名前も大切にしていきたいと感じました。
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